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2017年8月24日木曜日

2歳の息子が知っていること

この8月、めでたく2歳になった息子。イェーイ、おめでとう!

ええ、ええ、かわいいんです。とても。親バカ? そうです。そうですとも。

チャンスがあれば(息子がその気になったら)、いつだって抱きしめてほおずりして、ギューギュー、ギューギュー、ハグします。少し前までは外国の絵本の影響で、息子はハグのことを「BOBO」と言っていた。それもキュート極まりなかった!

毎日ギューギュー、ギューギュー、ハグしていると、先日ハグしている最中に、ふと息子が言うんです。

「おともだちは、やめてっていう。おともだちは、いやだっていう」。

はぁーん、切ない。切なすぎる。

息子の言葉の意味を説明すると、子育て支援センターなどでよく会う(もしくは時々会う)お友達にハグしようとすると、だいたいのお友達は突然のことにびっくりして嫌がって逃げようとするか、泣いてしまうか、なのです。少し大きなお友達になると「やめて」「いや」などと言いつつ拒否、とか。

まあ、仕方のないことです。
子どもだって気分ってものがあるし。人見知り真っ盛りの子もいるし。

なので、私は息子にいう。
「お友達にギューしていい? って聞いてみたら? あとは、先生にギューしたらいいんじゃない? 先生はギューされたらきっと喜ぶと思うよ」。

ということで近頃、息子は私の助言をガッツリ聞き入れ、毎回子育て支援センターに行くといろいろなお友達に「ギューしていい?」ときいてまわっている。お友達の顔を覗き込むようにしてきいている姿がなんとも愛しい。

けれども、ほとんどのお友達は息子の気持ちを受け入れてはくれないのだけれどね。たまーに、“いいよ!”っていう具合いに手を広げてくれる子もいるのだけど、そんなときにかぎっておしくらまんじゅう状態になって二人とも転んで、お友達が泣いちゃって息子は唖然、とか、まあまあ、なんともうまくいかないものです。へへっ。


それにしても、ハグの心地よさとか、ピースな感じとか、たった2年の人生でそういうのを知っている息子はいい感じだなって思う。親バカ? そうです。そうですとも。




写真は、同じく2歳でそういうのを知っているあーちゃんと、ハグする息子。

2017年6月8日木曜日

ひとみらいミーティングに参加して

薩摩川内市にこの春「ひとみらい政策課」なる部署が新設されたらしい。その課では「男女共同参画フォーラム」を開催したり、「マザースコーナーせんだい」と題して、子育て中のお母さんを中心に就職に関する支援をしたりしている。また、薩摩川内市内の学生が学校へ通学する際に、公共交通機関を利用するときの定期代の補助金制度や、新婚生活をスタートする際の引越し費用の補助金制度を制定するなど、若者や子育て世代にやさしい政策を実施しているようだ。

先日、よく子どもを連れて行く、こども園が主催する子育て支援センターにて、ひとみらい政策課の方とお母さんたちがお話する会「ひとみらいミーティング」が開催された。この日はたまたま休みだった夫に息子を預け、ひとりで子育て支援センターに出向き、「薩摩川内市にサドベリースクールを!」と提案。ボカンとされて悪目立ちしてしまったのだった。ああ、やっちゃった。

もちろん、話の道筋は立ててなるべくていねいに、しっかりと説明した(つもり)。現状、子どもを預けたい園や学校がないこと、今の学校教育に疑問があること、オルタナティブ教育というものがあること、サドベリースクールというスクールが魅力的であること、サドベリースクールが薩摩川内市にできたらイメージアップにつながるというメリットなどなど。

市の方は困惑した表情ながらも、話は聞いてくださった。ただ、いつもよく顔を合わせるお母さんたちをおそらくドン引きさせたに違いない。

ミーティング終了後、夫にこの出来事を話すと「伝え方が悪かったんじゃない?」と言われた。さらに「伝えるべきは、市の人じゃなくて、そこにいるお母さんたちだったのでは?」とも。

確かにそうだ。ほかのお母さんたちが共感したり、興味をもったりする話し方ができなかったのは失敗だった。私は市の人へ想いを伝えることにいっぱいいっぱいになって本質を見失ったのだ。同じような考え方のお母さんたちが大勢いてこそ、実現につながる第一歩だというのに。

普段、仕事では取材を通して人様のお話を聞く。話を聞き出す、それが大事な仕事の一部だ。けれど、私は想いを伝えることに関しては自分が思っている以上に不慣れだった。プレゼン能力のなさに愕然とする。

さて、気を取り直して。
今後どうしていこうか、私にできることは何か、今はそんなことを考えている。



2017年5月24日水曜日

「みすずちゃんって誰なのー?」

息子(1歳9カ月)が、何と前触れもなく「みしゅじゅ、みしゅじゅ」と言う。
なんのことを言っているか皆目見当もつかない私。

よーく考えてみた。
この日は保育園主催の子育て支援センターに一時預かりでお願いしていたので、もしかしてそこに“みすず”ちゃんという女の子でもいたのかな、と思いついた。

そこで息子に「みすずちゃん? 保育園にみすずちゃんっていう子がいたの?」と聞いてみる。しかし、依然として「みしゅじゅ、みしゅじゅ」と繰り返す息子。

わけがわからず、「みすずちゃんって誰? どこの子?(女の子の名前を言いまくるなんて100年はやいわい!と思いつつ) なんのこと?」と問うと、「トラック!」とひとこと。

息子が手にしていたトラックのおもちゃを手に取ると、そこには【ISUZU】の文字。

「みしゅじゅ」は“みすず”ちゃんという女の子ではなくトラックの【ISUZU】であった。(なんだ、女の子じゃないのね、トラックなのね、と少しホッとする。バカである)

それにしても1歳児の息子が【ISUZU】が読めるわけがなく、なぜ「みしゅじゅ」と言ったのか、謎だ。

不思議に思い、帰宅した夫に一連の流れを話す。
すると、2~3日前に息子のトラックのおもちゃのほとんどに【ISUZU】と記載されていることに関して、私が「トラックってISUZUが多いの?」と尋ね、夫が「ISUZUかHINOが多いかもね」と答えたというのだ。

はーん。そういえばそいういう会話した! と、そこでようやく思い出す。(バカである)

息子はその会話を聞いていて【ISUZU】を記憶していたのか。
1歳児の記憶力おそるべし。

わかっていないと思って、うかつなことは言えないなと気を引き締める今日このごろ。
先日36歳になったよ。てへへ




2017年5月9日火曜日

帰る場所

今日は鹿児島市内でとある飲食店の2代目社長さんと打ち合わせ。そのなかで目から鱗の言葉があった。その方はご自身の仕事に誇りをもっておられたし、とても楽しんでいらっしゃる。しかし、「子どもには継がせたくない」と。そして、「子どもに継がせられる仕事を10年かけてつくる」と。

はーん、私は子どもが将来就く仕事のことなど考えてもいなかった。無論、息子(1歳9カ月)がいつか自分の好きなこと、得意なことを見つけてほしいと、親なら誰しもが思うようなことは考えていたが、彼の仕事のこと、ましてや「私がそれをつくる」などとはチラリとも思ったことがなかった。

フリーランスの編集者・ライターという仕事。10年先がどうなっているのか。考えるのがちょっと怖い、という思いもある。AIがラフを切って、取材なんかしなくても良い原稿を書く、そんな時代…? いやいや…、でもどうだろう。

ある売れっ子のフリーライターの先輩は、かつて私に「書く仕事はなくならない」と言った。私が鹿児島へ移住したときも、「大丈夫」と。そして彼女も東京から離れ、地方都市で暮らしているが、そりゃあもうバンバンお仕事されている。活躍の幅、そんなものは狭めていない。

私が息子のための仕事をつくることは、この先もちょっと考えにくい。とはいえ、私は母ちゃん。息子にめいっぱいの愛情を注ぎ、おいしいごはんをつくって、自由な遊びの場を与えて、安心して眠れる家をととのえる。そして、がんばって働く姿だってちゃんと見せるよ。だいそれたことはできないけれど、できることからひとつずつ。

今日はいい打ち合わせができた。帰る場所があることに、感謝したい。



2017年4月28日金曜日

父子の遺伝子

昨夜、夕食時にトマト嫌いの夫に「トマトもちゃんと食べてね」と言うと、一切れ食べて残りを息子(1歳8カ月)のお皿に入れていた。トマトが大好きな息子は大喜び。無邪気に「イェーイ」と言っている。

食事も終盤に近づくと、息子が遊び食べを始めた。その様子を見て夫が「残さず全部食べなよ」と言った。(どの口が言うか!)

すると息子がおかずを手に取り、私に向かって「あーん、あむあむ」と言い始める。「お母さんにくれるの? 自分で食べていいよ」と言うも、息子は「あーん、あーん、あむあむ」と繰り返す。

それがかわいくてかわいくて、私は息子のそばへ行き、おかずをもらう。息子は私の口へおかずを運ぶと「あむあむ」と言いつつ満足げ。

…あれ? おかしいな。お母さんは残飯処理係かな? やり口が夫とそっくりだな。あれ? 全部食べるのはお母さんかな? あれれ~? 

おそるべし父子の遺伝子!


2017年4月20日木曜日

運動音痴だっていいじゃない?

薩摩川内市内に8カ所ある子育て支援センター。
今日はある子育て支援センターで“体操教室へ行って遊ぶ”という月に一度の会が催され、私は1歳8カ月の息子を連れて出かけた。

体操教室だけあり、普段はなかなかないトランポリンやマットなどで自由に遊ぶことができる。

が、しかし、息子はトランポリンを怖がった。トランポリンへ促しても「こわい、こわい」と言う。

120%運動音痴の私が恐怖心をひた隠しにしつつ、とにかく楽しそうに全力でやってみせたのだが頑に嫌がる。抱っこして跳ねてみるも、がっちりしがみついて離れようとはしない。手をつないで跳ねたらそれはもう恐怖の表情そのもので。

しかたなくトランポリンから離れると、息子は教室の端っこをひたすら歩き、ベージュ色の食パンサイズのウレタンマットを積み上げて「パン! パン!」とうれしそうにしている。

ふと我に返る。ああ、この子は私の子だな、と愛しくなるのだった。

親だからといって何かを息子に強要すべきではない。運動、苦手だっていいじゃない。



2017年4月19日水曜日

私の絶望的な記憶力のなさ

「○○くん(息子の名前)ママですよね?」。

今日、ときどき行く子育て支援センターで、ひとりのお母さんから声をかけられた。

“ん? いつ、どこで会った人だろう? 子どもの名前は? 何を話したっけ? ”

一応、笑顔で「お久しぶりです」と答えたものの、お手上げ状態! 頭をフル回転させ記憶を辿るも、さっぱりわからず。ダメだな私と少しヘコむ。

正直こういったやりとりはよくある。そして、私は決まってその人のことが誰だかわからないのだった。

なぜそのようなことが起こるのか。そもそも私はそんなに派手な格好はしていないはずだが、大抵帽子を被っているし、メガネという特徴がある。さらに、息子の名前が異常に覚えられやすい。おそらくそれらが相手の記憶に残るのだと思う。

それにしても、私の記憶力のなさったらない。一度会った程度ではまったく人の顔と名前を覚えられない。

もうこうなったらこれから出会う人へ先に謝っておくとする。「ごめんなさいね。てへへ」






2017年3月16日木曜日

子どもの心を育むこと

ある本に「生後9カ月までの子育てはほとんどの人が間違えない」という内容が書かれていた。

それを読んだのが、確か息子が1歳を過ぎたあたりで、“おやおや、これはちょっと怖いな”と思ったことを覚えている。

じゃあ10カ月以降になると、子育てを間違える人も増えてくるの? 
どうして9カ月までは間違えないの?
ていうか、私は大丈夫なの?
なとど、あれこれ考えた。 

考えた結果、生後10カ月以降は子どもが本格的に自分で動き始める、そこで子どもへの親のかかわり方が大切になっていく、ということだろうと思った。

子育て支援センターなどで多くの子どもたちをぼんやり眺めていると、1歳を過ぎたあたりから子どもの個性が少しずつ見えてきて、1歳半を過ぎるころにはそれがもっとはっきりとしてくる。とくに1歳半くらいには、どの子がどの親の子か子どもを見ているだけでわかるくらいに、親のカラーが子どもに反映されているようだ。

ああ、あの本に書いてあったことは、こういうことか、と理解した。

私の息子(現在1歳7カ月)は、先生が中心となって親子で行うキッドビクスやわらべうた、リトミックなどにほとんど興味を示さない。1歳くらいのときは“まだ1カ所に留まるのが難しいのかな。ハイハイをしている方が楽しいのかな”なんて楽観していたのだが、よちよちと歩けるようになった今となっては、クラスが始まるとサッサと気の向くままにどこかへ歩いて行ってしまう。

さて、どうしたものか、と最初は不安に思ったのだが、今はこれでいい、と考えている。
わが家はいろいろな理由でテレビをつないでいないので、息子は「おかあさんといっしょ」や「いないいないばあ」などの幼児向け番組をほとんど見たことがない。だから、単純にそうした歌にのれない。知らないのだから。

けれども、息子と一緒にライブへ行くと、息子は最前列でじっと演者の演奏を聴く。楽器を弾く手元を見つめる。ときに身体を揺らし、合いの手を入れるかのごとく、「イェーイ!」と声を発することも。

この様子を見ていると、息子は音楽が嫌いではない。むしろ好きだと思う。
ただ子ども向けの音楽には馴染みがない、親しみがない、というだけだろう。

子どもの生命力は大人が思っているよりも強い。
1年7カ月、子育てをしてみて、よっぽどのことがないかぎり、漠然とではあるが子は育つだろうと感じている。

でも、それは身体の話で、心はまた別の話だ。
心を育むには絶対的に親、もしくはそれに準ずる保護者のかかわりが大切なのだと思う。

今日、友達とその甥っ子と一緒に公園で遊んだ。
彼女は2歳の甥っ子の機嫌が悪くなったときに、じっくりとていねいに話かけ、その子の気持ちが上向くまでずっと待っていた。母親は毎日24時間ずっと子どもと一緒にいるから、そうしなければならない場面でも、場合によってできないこともある。それでも、私はできるかぎり子どもの気持ちに寄り添う母親でありたい。



2017年3月6日月曜日

夫の読み聞かせに泣いた、という独り言

今年1月に鹿児島のギャラリーNEW ALTERNATIVEで行われていた「恐竜がいた」展。
夫と息子と、家族で観に行ったんです。

息子は下田昌克さんがキャンバス生地で作った恐竜たちを観て、驚いてそそくさと帰ろうとしたのですが、まあそれも含め、とてもおもしろかったんです。そして、谷川俊太郎さんが詩、下田昌克さんさんが絵を描いた本を購入して帰宅。

昨夜、夫がその本を初めて息子に読み聞かせしていると、いつもより疲れていた息子は食事もとらずに寝てしまいました。その様子が妙に印象的だった、という夫は、今日も夕食後に息子に読み聞かせを始めます。私は昨夜のそれがどのようなものだったのか気になって、となりで聴くことにしました。

すると、泣けました。
谷川俊太郎さんの詩には、わからない言葉が出てこない、小賢しい表現も出てこないーー。
それなのに、やさしくやさしく柔らかくまあるいまあるい言葉で、ぐさりと心を八つ裂きにするかのごとく、真理をつくのです。

そして、夫。
いつもライブで自作の詩を読むときとは違った、まるでお父さんの声、そのもので、谷川俊太郎さんの詩を読んでいました。それはとてもあたたかく、声そのものが、湯たんぽみたいで。聴いているだけで心地よくなり、正直、わが夫ながら最高だね、と思ったのです。

私、泣けました。
ああ、夕方、ファミレスでせっせとパソコンをひらいて書いていたあの文章はなんだったのか、と思わされて。本当に泣けました。少しですけど。

そりゃあ私が谷川俊太郎さんと比べるアレではないことなんて、百も承知です。
それでも、やっぱり谷川俊太郎さんが100%すばらしくても、自分の文章のことがそこで1mmでも思い浮かんだことは、私の中で何かが変わってきているのかな、とも思えてうれしかったんです。

何が言いたいのかというと、谷川俊太郎さんの詩も、私の夫も最高だということです。今宵の独り言。おやすみなさい。




2017年2月5日日曜日

生きている実感がビシバシくる!

息子が1歳半になった。
これまで赤ちゃんだとばかり思っていたが、言動に幼児を感じることが多くなった。

最近は、息子の言動で家庭にあらたな笑いが生まれる。それはただ愛らしくて笑みがこぼれるのではなく、本当に可笑しくて笑ってしまうのだった。

この瞬間、「ああ、なんて幸せなんだ!」と思う。生きている実感がビシバシくる。

ありがとう、息子よ。母は幸せだ。


2016年11月5日土曜日

「僕らはまたやさしくなった」

わが家に哀しい出来事が起こってから数日。人のやさしさを噛み締める日々だ。

夫は「生きていれば大丈夫。家族3人、生きていれば大丈夫。僕らはまたやさしくなった」と言った。ひだまりに包まれているようなあたたかさを感じた。

おかげさまで日常は幸福に満ち、哀しみに浸る暇もないほどに1歳3カ月になったばかりの息子が私を求めてくれる。だから、本当はとても哀しいのだけれど、大丈夫。ちゃんと立っていられる。よろめいても支えてくれる家族もいる。友達もいる。

この出来事から“生きていればいろいろあるものだな”と痛感した。こんな風にしみじみと感じるのは初めてかもしれない。人生の折り返しに向けて、じわりじわりと熟しているのかも、ね。どうだろう。

心配して会いに来てくれたり、声をかけてくれたり、電話やメッセージをくれた親愛なる友人たちへ、あらためてありがとう。私は大丈夫よ。




2016年10月21日金曜日

自画自賛するとき

昨年の夏に息子が生まれ、初めて「自分が母親であること」や「自分自身の中の母性」を実感したのは、授乳や抱っこ、沐浴、おむつ替え、寝かしつけ、泣いているのをあやすのではなく、子どもの汗をガーゼで拭っているとき。それは自分でも意外で、先輩ママである妹(現在、小学4年の息子がいる)に「聞いて聞いて! 汗を拭いているときに“お母さんになったんだなあ”と感じたんだけど!」と、わざわざ言ってしまうほどであった。(ちなみに妹も「そうね。確かに手をかけてあげているって感じがするよね」と優しく同意してくれた)

そして、最近「私、いいお母さんじゃん!」と自分で 自分を褒めてあげたくなるのは、1歳2カ月になった息子がものすごく良いう○ちをしたとき。柔らかすぎず、硬すぎず、1日1回、もしくは2回、立派なう○ちをしたときに、私は“母親として息子にきちんと食事を与え、適切に水分を補給させ、遊びの時間に適度に運動をさせ、余計な不安やストレスを与えず、しっかりと睡眠をとらせている、だからこそ理想的なう○ちが出ている、なんて素晴らしいんだ!”と、ひそかに自画自賛するのであった。

母親になって1年2カ月。子育てに正解なんてないんだろうなと思いながらも、息子のため、ひたすら迷ったり、考えたりの日々である。元来、体力のない私だから肉体的には結構ハードなのだが、「子育ては楽しい!」と心から言える。



2016年10月1日土曜日

日曜日と祝日の行き先がない

一日中家にいると息子(1歳1カ月)が私にべったりで、家事をするのはおろかトイレにすらなかなか行けない。所謂、赤ちゃんの成長過程にある後追い行動のためである。

まだ歩くことができない息子だが、ハイハイでどこまでも行けそうなほどに体力がモリモリ。ゆえにその体力が尽き果てるまで、自由にのびのびと遊ばせる必要があるのだ。実際、そうすることでぐっすり寝てくれるし、お腹も空くのでごはんもたっぷりと食べてくれる。そのため、近ごろは日中なるべく外出することにしている。(もちろん、彼の好奇心を満たしたり、ほかの子どもとの出会いで何かを感じたりして欲しい、という想いも一応あることはある)。

そこでありがたいのが子育て支援センターや子育てサロンだ。妊娠中や産後すぐはその名からして敬遠していたのだが、実際に足を運んでみると先生たちやほかのお母さん方の存在にずいぶん助けられる。自宅より広い場所で動き回る子どもたちは、みな元気いっぱい。目新しいおもちゃであれこれ遊んだり、ほかの子どもとやりとりすることも経験できる。目線の先に子どもをおきつつも、先生やお母さん方と子どもの成長について話す時間は、育児書やネットの情報では得られないものであり、なにより自分自身の気分転換にもなるのだ。また、予期せぬ動きをする子どもに対して、ケガなどしないか、誤飲などしないかと常に緊張感をもって目を光らせているが、多くの大人たちの目があることで、ほんの少しだけ気を抜くことができる。フッと肩のチカラが抜ける瞬間がある、というくらいの表現が正確かな。けれど、それだけでも今はありがたい。

しかしながら、子育て支援センターは日曜日と祝日がお休みである。夫は平日休みなので、日曜日と祝日に行く先がないのは結構痛い。子育てにお休みはないのに子育て支援センターが休みなのは困っちゃうなーというのが本音。日曜日・祝日に仕事をしている親は託児所に預けているのだろうか。それもまた大変だ。

20代のころはありがたがっていた24時間営業のコンビニやスーパー。今なら24時間開いている必要ないわーと思うのだが、子育て支援センターは日曜日と祝日もやっていておくれよ~と思ってしまうのだった。人間ってそのときそのときで勝手なもんだ。


2016年9月17日土曜日

母親という生きもの

昨年の夏に息子を出産してから私の日常は一変した。望んで望んで授かったわが子。かわいいに決まっている。が、しかし、正直、覚悟していた以上に生まれてからの数カ月は大変だった。

産後、感動とドキドキとワクワクと、カラダのあちこちの痛みとでぐわんぐわんしている最中、初めて息子がう○ちをしたときのこと。(お食事中の方がご覧になっていたらごめんなさいね)。岩のりみたいな黒い物体がおしりにこびりついていた。ぎこちない手つきでおしりふきシートを使って拭くのだが、拭けども拭けども汚れが取れない。思わず隣りで見てくれていた助産師さんに聞く。「これってどの程度拭くんですかね?」。するとこれ以上ないくらいにキッパリ、ハッキリと「全部です!」と助産師さん。

今となっては情けない話だと思うが、そのやり取りで“わが子のことはすべて私がやる”のだと気づかされたのだった。おっぱいも、おむつ替えも、着替えも、あやすことも、全部。文字通り、全部。

私の夫は俗にいうイクメンである。(イクメンという言葉は気に障るけれども)。1歳を過ぎた息子に対し、今では授乳以外のすべての面倒をみる。ほかのお母さんたちの話を聞いている感じだと、多くのお父さんたちの2倍、いやいや5倍、もしかすると10倍くらいは育児にかかわっているかもしれない。

健診の日はお休みをとって同行し、病院へ行くものだいたい一緒に来てくれる。日常でも朝の出勤前までは夫が息子の世話をし、夕方以降、私が家事をしている間はずっと息子の相手をしてくれる。さらに私が取材で家を空ける日は、一日中子どもの面倒をみることも。

そして、方々で言われるのだ。「いいパパね」「なかなか病院まで一緒に来てくれるパパはいないよ。感謝しないとね」「素敵な旦那さんつかまえたわね」などなど。とにかく育児に参加することで、夫はほめられまくっている。

はて? お母さんは子どものお世話を全部するのが当たり前で、お父さんがするとほめられる。なにそれ? である。念のため書いておくが、私も夫もほめられたくて育児をしているわけではない。私たちは息子がかわいくて仕方ないし、初めての子育てをとても楽しんでいる。ただ、それでもときどき大変に思うことはあるのだけれど。にしても不公平じゃないか。お父さんだけほめられるなんてさ。

先月、保育園主催の子育て支援センターのお誕生日会に参加した。8月生まれの息子はまだわけがわかっていなかったが、みなさんに「おめでとう!」と祝っていただいた。そして主任の先生がみなさんの前で私にこう言ったのである。「いつも子育てを頑張ってらっしゃると思います。お子さん、とてもいい子に育ってますね。子育ては大変だと思いますが、これからも頑張ってくださいね」と。そんなつもりはなかったのだが、ふいにかけられた言葉にウルウルしてしまった。

自ら望んで生んだ子ども。頑張って育てるのは当たり前だけれど、それでも労われることで救われた。仕事だったら「お疲れ様です」「ありがとうございました」とか、「いい記事でした」とかなんとか、なにかと言葉をかけていただける機会はあるのだが、子育てはそれがほとんどない。無論、夫は私を労ってくれるのだけれど、そうじゃなくて第三者からの声かけというのがポイントかもしれない。

近くに子育てを頑張っているお母さんがいたら、子どもにだけではなくてお母さんにも声をかけてほしい。きっと、そのひと言でお母さんはもっともっと頑張れる。
母親とはそういう生きものだと思う。



2016年9月15日木曜日

子育ての悩み

昨年の8月に生まれた息子はこの夏1歳になった。それはそれは親孝行な子で、熱ひとつ出すことなく元気に育ってくれている。

産後のホルモンバランスに振り回された日々を経て、なおも手探りの子育て。子どものためにベストな選択をしたい、と意気込みすぎる傾向がある。

以前、夫に「私、子育てに向いてないかも」と漏らしたことがある。そのとき彼は「子育てに向き不向きはないよ」と言った。確かに、と妙に腑に落ちたことを覚えている。仕事ではないのだから、向き不向き、得手不得手など関係ない。不器用な私でも、どうあれ大切に、一生懸命に育てるのみだ。

息子が生まれたときに、ひとつ決めたことがある。
それは「なにも期待しない」ということ。

期待しない! なんていうと少し乱暴で投げやりに捉えられかねないが、これはあくまでもいい意味で、である。私たち夫婦にとって何はともあれ息子は完全な存在であって、それ以上に何かを望まないということだ。元気にすくすく育ってくれたら文句なし! ありがとう! ということ、ね。

息子は1歳を過ぎてものごとをほんの少しずつ理解し始めた。去年の今ごろを思えば奇跡のようだ。(正直、生後1~2カ月の記憶がほとんどない。日々感動し、日々大変だった!)

子育ての悩みは、息子の成長とともに次々とあらわれる。それはたった1カ月も経てば「なんでこんなことで悩んでたんだろ?」と思われるものばかり。そして、その答えはすべて息子が教えてくれる。しかしながら、それがわかっていてもなお考えてしまうのは母親だからか、私の性格の問題か。

さてさて、今夜も小さな大の字で寝息をたてている息子のとなりで眠るとする。



2016年9月9日金曜日

一日の終わりに、息子にかける言葉。

ここ数カ月、とにかくハイハイで動き回りたい息子(1歳1カ月)を連れて子育て支援センターに通っている。もう家のなかだけでは体力を持て余して仕方ないといった様子を見かねて、あれこれ調べては保育園や公民館へ足しげく通っているのだ。

最初はお母さん同士のお付き合いに尻込みしてしまい、息子がねんねすると読書をしたり、iPhoneで調べものをしたりしていたのだが、最近ではほかのお母さんたちとも自然に話せるようになった。子どもが同じ歳だと妙に親近感が湧く。少し子どもが大きいお母さんには離乳食のことを教えてもらったり、卒乳・断乳のエピソードを聞かせてもらったり、子どもという共通の話題で話は尽きない。

なんだ、ママ友って怖くないんだ!と実感している。この町ではわりと若いうちに結婚・出産している人も多いので、私は高齢ママの部類に入るだろうし、話が合わないのではと無意識的に壁をつくっていたのだろう。それも今となってはバカバカしく思う。

愛する子どもを一生懸命育てるお母さんに年齢は関係ない。だから10歳年下のお母さんとも、10歳年上のお母さんともただただ楽しく話している。これって仕事の世界ではなかなかないので、近頃はそれを面白いとすら感じている。息子が導いてくれた新しい出会い。新しい世界ーー。いいぞ、私。お母さんを楽しんでるぞ!なんて。

未だ続く夜間授乳に“朝までぐっすり寝た~い!”と弱音を吐くこともあるのだけれど、それでも息子との日々は毎日がコメディでドラマチック。ワンシーン、ワンシーンが忘れたくないことの連続である。

「今日も楽しかったね。また明日も楽しいことあるかな?」。
これが一日の終わりに、息子にかける言葉。